女三界に家は無し・・・・よく母がつぶやいておりました・・・

                こんなに早く実感するようになるとは思いませんでした。          
                兄亡き後 父は、長男に嫁いでいる私に迷惑は、かけられないと
                お寺に永大供養とお位牌堂をお願いしましたが・・・
                

すぐに両親も後をおってしまいました。

                
 当時兄嫁は若く,二人の幼子をつれ実家に戻りました。
              

   私は、跡を継ぐ者のいない誰も住まない実家にしばらくは通いましたが
                 今は貸家にして主人の厚意で実家の仏壇を我が家に置いております。
                

 同じ敷地内の母屋に主人方の仏壇はあります。
                

 どうしてもお寺に三人が眠る仏壇をあずけることができず・・・・・
                主人や義父母には、心から感謝しています。

                 両親と兄が駆け足であちらへ逝ってしまい・・・
            ぽっかりと心の中にあいた穴をうめてくれたのは、
            娘の書いた作文でした・・・
母娘で当時を思い出し 泣きながら
            書き上げ作文コンクールに応募しました。
                  運よく入賞し地元の新聞に全文掲載されました。

                  平凡でちっぽけなどこにでもある実家の家族でしたが、娘として妹として
                  何かしら書き残しておきたい気持ちにかられてしまいました。
                  
まったく琴屋のHPには関係のないことなのですが
                  
お叱りやご批判を覚悟で・・・実家への自己憐憫をお許しください。
                  

 当時の家族の話を小5の娘が書いた作文を記します。


                      
生きると言うこと         1999 / 8月   小5  ありさ


        そこは、とてもキラキラしていて、たくさんの花と明るい天じょうに囲まれていました。
        
横では母が子供のように肩をふるわせて泣きじゃくっていました。
      
 まるで弟が買ったばかりのソフトクリームのクリームの部分を落としてしまって
        火がついて泣き出したように。 「えーん、えぇーん。」
        私 もつられて大声で泣いてしまいました。

それが、私のおじさんのお葬式の日のことでした。

祖父母は、がっくりとしていましたがおじさんのために泣くのをがまんしているようでした。

おじさんは、38才でした。

私は、小学1年生。おじさんの子供達は、5才と3才でした。奥さんは28才でした。

おじさんが、がんのため病院で入院している間奥さんは、ずっと病院につきそっていて
2人の兄弟は、母方の祖母にあずけられていました。

おじの死後、弟の寛ちゃんは、
「おとうさん、もうネンネしたの? そんなら、今日はお母さん寛ちゃんとネンネするの?
お母さん、早くお家に帰ろう。」  と言ったそうです。

3才の寛ちゃんには、おじさんの死がわからなかったのでしょう。

5 才の志郎くんは、わたしの母に

「志郎くん、お父さんはもう、目が覚めないのよ。天国にいったのよ。」と言われて

立ったままで声を出さずに、大きなひとみから ただただ

涙をあふれるように流して、てのひらをぎゅうっとにぎりしめていたそうです

母はそれを見て、胸がしめつけられるほどつらかったそうです。

私はおじさんに最後のお別れをする時、手紙を書きました。

「おじちゃん、天国でみんなを見守ってね。志郎君や寛ちゃんと仲良くするよ。
おじいちゃん、おばあちゃんのめんどうも、ちゃんとみるからね。

  それから2年生の冬。2月15日。

今度は 、祖母が急に亡くなってしまいました。

おじさんが亡くなった後
私たち家族は、祖父母を元気づけるために、がんばりました。

私はテストで100点を取ったり、上手に書けた絵を持っていったりしました。
母も、毎週お花をかかさずもっていき、父は祖父のお酒を飲む相手をしていました。

でも、祖父母の悲しみをうめることはできなかったのでしょう。

祖母は、心きんこうそくでとつぜん亡くなりました。

おじさんと同じそうぎ場でした。おじが亡くなって1年半しかたっていませんでした。
 
「花の下にて春死なむ。このきさらぎの望月のころ。」

西行法師が仏様の命日のためにつくったうたです。

祖母は仏様と同じ日に亡くなったのでした。
本当にやさしくて、母に怒られた私をよくなぐさめてくれました。

「あーちゃん、かしこいねえ、おりこうねえ 、
おばあちゃんは、あーちゃんが 一番大好きよ 。」
「あーちゃん、えらい人になってね。だれからも愛される女の子になってね。」
   
今でも、祖母とおじさんの写真を机の上にかざっています。
つらい時や、さみしい時は2人の写真が笑いかけてくれるような気がします。

祖父は、大きな家にひとりっきりになりました。

私は、弟と2人バスに乗って祖父の家へよく泊まりに行きました。

祖父の手料理を食べ、お風呂に入っていろんな話をしました。
   祖父は笑っていました。でもある晩、祖母とおじがねむる仏壇の前で
        
「すまんかったなあ、苦労かけたなあ」といいながら
   
さみしそうにいつまでも、そこにすわっていました。
   
祖父は、とても元気で私にとっては、何でもできる、スーパーおじいちゃんでした。
   それなのに、しばらくは、ぼんやりとしていつも遠くを見ていました。
     
そしてわたしは小学3年生になりました。

8月に、祖母の初盆があり、祖父は親せきの人たちと祖母をしのびながら
   泣いたり、笑ったりしてしまいました。
   
その夜、祖父はたおれてしまいました。しばらくの間、生死をさまようじょうたいでした。
   

毎日母は病院に行き、夜遅くまで帰ってきませんでした。
  
 私は、弟のめんどうをみながら、父の手伝いをしました。
   
母は、とてもつかれてイライラして、ため息をついたり、私たちはよく怒られました。
   

私は、なんだか自分がいらない子なんだと思ったり、母にかまってもらえないさみしさで
   よく、つめをかんでいました。でも、母は、ときどき私と弟をひざにのせて
    
「ごめんね。さみしい思いをさせてごめんね。お母さんをおじいちゃんの
     病院に行かせてね。おじいちゃんは、きっとよくなるからね」
   
   今思えば、母は大変だったと思う。不幸なことが続けておこったのだから。
  

 3年の時のたんにんの先生が私のことをとても心配してくれて
よく話相手に なってくださいました。

3年の終わりの3学期に母は、連絡帳にかいていました。
   
   「母子ともに、先生に助けていただき感しゃしております。
母として、つまとして、人として考えさせられた1年でした。
ありさにもつらい時期だったと思いますが
   よくがんばってくれました。」
    
私は、それを読んで、母はちゃんとみていてくれたんだと思いました。
   
私は4年生になり、祖父は一命をとりとめました。

    車イスの生活になり、言葉をしゃべることもできなくなりました。以前の祖父とは
    くらべものにならないほど変わってしまいました。でも私たちがお見舞いにいくと
    ニコニコ笑って、手をさしのべてあく手をしてくれました。
    
「おじいちゃんは、かわいそうだ。なんでこんなことになってしまったのだろう。
      口から物を食べることもできない。ベットにねたっきりで。」と思いました。
    
母は、祖父に 「生きてね。私のために生きてね。お兄ちゃんもお母さんも
    いないのに、お父さんまで2人のところへ行かないで」と言っていました。
    
    私は、祖父の看病をする母を、えらいなと思ったり母をささえる父を尊敬しました。
 
そして5年生の春 

    祖父はきせき的に体力を回復して車イスにのっているけど、食事は自分の動く方の
    左手で食べられるようになりました。リハビリもがんばっています。
   

 今年のお盆には、祖父の家に外泊することができました。
    仏壇の前で祖父も両親も涙ぐんでいました。
     
    私は、心から、「本当によかったなあ、こんなにおじいちゃん元気になって。
    きっと天国で祖母とおじが助けてくれたのかな」と思いました。
    
    私の将来の夢は、小説家になることです。だから1年生の時から私の家族に
    おこったできごとを書いてみたいと思いました。

    そして一生けんめい生きると言うことがどんなに大切でむずかしいことなのか
    すこしだけわかったような気がします。
    

若くして、2人の子供と奥さんを残して亡くなったおじや、とつぜん亡くなった
    祖母のことを考えると命をそまつにしては、いけないと思いました。      




その1年後に父は、右手を私が、左手を娘のありさが固く握りしめ

主人と息子も見守るなか、静かに、母と兄のもとへと旅立ちました。

 


兄が亡くなったあと母は、「お母さんね!せめて80歳まで元気で健康に気をつけて

生きるからね!あなたがひとりボッチになっちゃうから・・・」っていってたのにね。

すぐお兄ちゃんの後をおいかけちゃったね。

母の初盆で倒れた父は、本当は、あの時が寿命だったのだと思っています。


いつも・・・口癖のように「俺が寝たきりになったら 絶対に延命治療は、嫌だからな!

苦しまずにさっさといかせてくれよな!」って

元気な頃いってたよね・・・・・・。

ごめんね!苦しくてつらくて涙ポロポロ流してたよね。

まるでわたしの手をきつく握って

死なせてくれ、はやく楽にしてくれ、といってるようだったね・・・。


それでも生きていて欲しかったんだよ・・・わたしのために・・・。


寝たきりになって、きついリハビリにもたえ

奇跡的な体力で回復して 外泊出来るまでになったよね。
お医者さんもびっくりしてたね。

母と兄がいる仏壇にむかって動く方の左手でお線香上げたよね。

ただいま!って声がでないけど口を動かしたよね。

あの後からリハビリもやめて食事も拒否して、

静かにその時を待ってるようだったね。

私にも心の準備ができたよ。

もうすぐお父さんともお別れなんだと・・・

お母さんとお兄ちゃんのとこへいっちゃうんだと・・・。

ほんとにありがとう・・・。

お父さんとお母さんの娘でよかった・・・お兄ちゃんの妹でよかった・・・。

最後にお兄ちゃん!彼女は、とうとう昨年再婚しましたよ。10年たったよね。

看護師になったんだよ。

5年間も子育てしながら看護学校にいったんだ。

すご~く頑張ったよ彼女!褒めてあげてね。

2人の息子も中2と高2だよ。

よく似てるよ。お兄ちゃんに!元気にのびのび育ってるよ!安心してね。

そして貧乏暇なしだけど・・・わたしも2人の子供と優しいだんな様と

なんとか平和に暮らしています。





長々と一家族のちっぽけなお話をご覧くださりありがとうございました。

                                                             2006.2.15 記
わたくしごとのおまけ物語